有料と優良のこと
みなさんこんばんは。
いきなりですが、今回は私の作業環境を赤裸々に暴露します。別にネタ切れしたわけではありません。理由は後述。
まずはイラストについて――。
私はときどきイラストを描きます。動画の制作においても、イラストから用意する場合があります。
そんなとき、私はメディバンペイントというツールを使います。
またイラストや素材の些末な調整、諸々の加工などはみなGIMPというツールによって行っています。
続いて動画――。
動画制作には、ずばりAviUtlを使っています。まさに愛用。ざっと数えても使い始めてから8年くらいが経っています。
ここで、私が列挙した環境におけるある共通点にお気づきでしょうか。
正解はそのすべてがフリーソフト、すなわち無料ということです。
今回はそういった無料の道具を使うことと優良な作品を生むことについての考察。
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執着と終着のこと
こんばんは、もうすぐ秋ですね。ブロマガ移行の都合もあって今回は早め。
みなさんはなにかに執着してしまうこと、ありませんか?
そんなわけで今回はボカロの話です。あるいは私の嗜好について。
なにより私はボカロが大好きです。聴く音楽はもっぱらボカロですし、ボカロが無ければ今や私は存在していません。逆に人間の歌はまったくといっていいほど聴くことがありません。不思議なことですね。
ひとえにボカロと言っても、その解釈は一意でないといいます。ある人は「機械の歌声」をボカロと呼び、ある人は「いわゆるボカロっぽい曲たち」をボカロと呼び、ある人は「歌ってみたというインスタンスのクラス」をボカロと呼び――。私のそれは一つ目に近いものです。
なぜ私がボカロばかりを好むのか。一つの理由は、そもそも私が人間というものを好まないことでしょう。なにせ現実嫌いの私なので、現実の外でも現実を感じていたくはないのです。キーワードは人間らしくなさ、あるいは現実らしくなさ。ほかにも完璧主義っぽい私との相性が良いことや、幼いころに深くハマったコンテンツであることなど、理由はいくつかあると思っています。
ところで、一般的な歌とボカロにはなにか明確な境界線がありますよね。いわゆる文化というものは明らかに異なっているのではないでしょうか。あまり前者を知らないのでなんともいえませんが。
そして境界線があるということは、そこに「排他的論理和」が存在するということです。平たく言えば、それは「どちらか一方」の存在。どちらかであれば許すが、どちらもは許さないという考え方を指します。
ボカロは好きだが人間は好まない。あるいは人間は良いけどボカロは良くない。これらは排他的論理和といえるでしょう。それって……私のこと!?
先日、私は私がもっとも愛したボカロPさんのキャスに耳を傾けていました。いつものことです。いつかのキャスで、私たちのような「どちらか主義」の存在は煙たがられていました。いつものことです。
あなたもボカロをやめるのか、ボカロはただの踏み台だったのか。そういった声が鬱陶しいとのことでした。たしかにそうかもしれません。
私にとってそれらの声というのは、決して第三者のそれではなかったのです。正直、私もこれまで同じようなことを幾度となく心に抱いてきました。ボカロで聴きたかったな、ボカロ版が出ないかな。これらは私の常套句。待ちに待った告知が歌い手さんへの書き下ろし曲で肩を落とし、アルバムに収録されるそのボカロ版に垂涎する日々を送ってきたのです。
実際私がもっとも愛したボカロPさんも、近年はボカロ外で広く活躍しているみたいです。多くの歌い手さんに曲を書き下ろし、数年ぶりの投稿曲もついには人間が歌うもので、また気づかないところで別のことも行っていると聞きます。
私の好きだったものが広く認められることや長生きすること、それはとても喜ばしいことです。喜ばしいことのはずです。しかし私は喜んでいますか?
懸念、それは執着による「好き」の屈折です。執着にとらわれた私の「好き」は、その対象となるクリエイターを苦しめるものなのではないかということ。最近はこのことばかり考えています。
それは確固たるジレンマ。山のように、嵐のような。もはや私の愛は形骸化してしまっているのかもしれません。それは表面的な愛、まるで紙ペラ?
諸行無常の響きたるや、百も承知です。世界は絶えず変化し、流行はその文字通り過去へ流れて行きます。そこに佇む私たちの執着というのは、クリエイターたちを絞首しているのでしょうか。私たちの好意は創作の枷となっているのでしょうか。
やはり世界というところを生きるためには、私たちが嗜好を変化させていくしかないのかもしれません。すなわち執着からの解放です。ただそれというのは自己を否定することになりえます。つまりは私たちを構成する貴重なパーツを破壊していくということ。接着剤のイメージが適切でしょうか。私たちの好きだったものを守るために、私たちの好きだったことを壊すのです。しかしそれこそが世界を生きるということなのだとしたら――。なんというイタチゴッコ。
これは終着のない執着の話。きっと私の執着は私自身が終着するまで終着しないのでしょう。私の執着を終着させるには、私が終着するしかないということですね。
しかし今回の記事はこのあたりで終着、それではまた次回。
みなさんはなにかに執着してしまうこと、ありませんか?
しゅう‐ちゃく〔シフ‐〕【執着】 の解説終着のない私の話、どうか聞いてくれませんか?
[名](スル)《「しゅうじゃく」とも》一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと。「金に執着する」「執着心」
しゅう‐ちゃく【終着】 の解説
列車など交通機関が、ある路線の最後の駅に着くこと。終点に着くこと。
そんなわけで今回はボカロの話です。あるいは私の嗜好について。
なにより私はボカロが大好きです。聴く音楽はもっぱらボカロですし、ボカロが無ければ今や私は存在していません。逆に人間の歌はまったくといっていいほど聴くことがありません。不思議なことですね。
ひとえにボカロと言っても、その解釈は一意でないといいます。ある人は「機械の歌声」をボカロと呼び、ある人は「いわゆるボカロっぽい曲たち」をボカロと呼び、ある人は「歌ってみたというインスタンスのクラス」をボカロと呼び――。私のそれは一つ目に近いものです。
なぜ私がボカロばかりを好むのか。一つの理由は、そもそも私が人間というものを好まないことでしょう。なにせ現実嫌いの私なので、現実の外でも現実を感じていたくはないのです。キーワードは人間らしくなさ、あるいは現実らしくなさ。ほかにも完璧主義っぽい私との相性が良いことや、幼いころに深くハマったコンテンツであることなど、理由はいくつかあると思っています。
ところで、一般的な歌とボカロにはなにか明確な境界線がありますよね。いわゆる文化というものは明らかに異なっているのではないでしょうか。あまり前者を知らないのでなんともいえませんが。
そして境界線があるということは、そこに「排他的論理和」が存在するということです。平たく言えば、それは「どちらか一方」の存在。どちらかであれば許すが、どちらもは許さないという考え方を指します。
ボカロは好きだが人間は好まない。あるいは人間は良いけどボカロは良くない。これらは排他的論理和といえるでしょう。それって……私のこと!?
先日、私は私がもっとも愛したボカロPさんのキャスに耳を傾けていました。いつものことです。いつかのキャスで、私たちのような「どちらか主義」の存在は煙たがられていました。いつものことです。
あなたもボカロをやめるのか、ボカロはただの踏み台だったのか。そういった声が鬱陶しいとのことでした。たしかにそうかもしれません。
私にとってそれらの声というのは、決して第三者のそれではなかったのです。正直、私もこれまで同じようなことを幾度となく心に抱いてきました。ボカロで聴きたかったな、ボカロ版が出ないかな。これらは私の常套句。待ちに待った告知が歌い手さんへの書き下ろし曲で肩を落とし、アルバムに収録されるそのボカロ版に垂涎する日々を送ってきたのです。
実際私がもっとも愛したボカロPさんも、近年はボカロ外で広く活躍しているみたいです。多くの歌い手さんに曲を書き下ろし、数年ぶりの投稿曲もついには人間が歌うもので、また気づかないところで別のことも行っていると聞きます。
私の好きだったものが広く認められることや長生きすること、それはとても喜ばしいことです。喜ばしいことのはずです。しかし私は喜んでいますか?
懸念、それは執着による「好き」の屈折です。執着にとらわれた私の「好き」は、その対象となるクリエイターを苦しめるものなのではないかということ。最近はこのことばかり考えています。
それは確固たるジレンマ。山のように、嵐のような。もはや私の愛は形骸化してしまっているのかもしれません。それは表面的な愛、まるで紙ペラ?
諸行無常の響きたるや、百も承知です。世界は絶えず変化し、流行はその文字通り過去へ流れて行きます。そこに佇む私たちの執着というのは、クリエイターたちを絞首しているのでしょうか。私たちの好意は創作の枷となっているのでしょうか。
やはり世界というところを生きるためには、私たちが嗜好を変化させていくしかないのかもしれません。すなわち執着からの解放です。ただそれというのは自己を否定することになりえます。つまりは私たちを構成する貴重なパーツを破壊していくということ。接着剤のイメージが適切でしょうか。私たちの好きだったものを守るために、私たちの好きだったことを壊すのです。しかしそれこそが世界を生きるということなのだとしたら――。なんというイタチゴッコ。
これは終着のない執着の話。きっと私の執着は私自身が終着するまで終着しないのでしょう。私の執着を終着させるには、私が終着するしかないということですね。
しかし今回の記事はこのあたりで終着、それではまた次回。
想像と解像のこと
こんばんは、夏ですよ。
最近、動画という媒体が社会を跋扈していますよね。なんとかチューブとか、なんとかフリックスとか。もはや動画として提供されなくてよいものまで動画として提供されている場合もあるでしょう。気軽に知りたい情報とか、のんびりと読みたい記事とか。
実際、私も動画という媒体の虜であることは事実です。私の日常に生じた隙間には、ニコニコ動画がいっぱいに詰め込まれています。たまに静画や生放送も混ざっていますが。
今回はその動画をふまえて、最近の作品に思ったことを一つ。キーワードは想像力と解像度。
近年は4Kや8K、UHDという言葉をよく耳にしませんか?
UHDはUltra HDのことで、もっと言えばUltra High Definitionの略だそうです。つまりは超高解像度みたいなやつです。4Kや8Kは画素数のことを言っていて、水平方向に4,000画素や8,000画素くらいあるよ、ということみたいです。
ちなみに私はあまりこの辺に詳しくありません。ちょっと詳しい友人に訊いてきます。
これでもかと動画が普及するにつれて、解像度の高まりも止まるところを知りません。自然の景色や映画の迫力、スポーツの中継を鮮明に味わいたいということでしょう。
それと低解像の画像や動画を高解像にする、超解像という技術もあるみたいです。人間は強欲ですね。
みなさんはこれ、どう思いますか?
私はボカロが好きで、いわゆるボカロPVも好きです。自ら作ってしまうほどには、ボカロPVのような作品に目がありません。
最近の動画を見ていると、解像度の高さに驚かされます。ここで言う解像度は、べつに画素数にかぎった話ではありません。時間的な解像度、ましてや投稿間隔的なものも含みます。もしかしたら周波数と言った方が適切かもしれません。
最近の動画は本当に緻密で、まさに高精細といったところでしょう。
空間的な解像度としては、なによりも画素数です。HDやFHDの動画はもはやもちろんのこと、4Kの作品すら目にすることがあるのではないでしょうか。説明不要!!
あとは文字の大きさですね。最近の動画は文字の小さいこと小さいこと・・・。スマートフォンから見たら、なにも見えませんよ。文字は大きければ大きいほど恰好良いと思っている私からすると、これは少し意に反した風潮です。
時間的な解像度について言えば、それはフレームのことです。今やフレーム単位で動くオブジェクトやエフェクトなどは、もはやざらです。フレームレートも高いものが増えてきて、やたらとぬるぬる動きますよね。これはいわば「イントラ動画」の話です。
そういった高精細な動画たちが、恐るべき頻度で世に放たれていることも事実です。昨今のコンテンツは賞味期限が本当に早くて、もったいないとすら感じられます。それくらいには供給の周期が短くて、目まぐるしいです。先の「イントラ動画」に対して、これは「インター動画」の問題と言えるでしょう。
スペーシャルだったりテンポラルだったり、イントラだったりインターだったり。とにかく昨今の動画は超高解像度なのです。
ここまでする必要、あります?
解像度の低い画像や動画に対して、不満を口にする人を見かけます。「これは画質が悪いよね」、「もっと画質が良ければなあ」。もしかしたら最近はもっと増えているかもしれません。
私にはそういった声が、私たちの過去を否定しているように聞こえてしまうのです。ほんの十年くらい前、私たちは360pや480pくらいの動画を存分に満喫していたはずです。技術の動画なら細部は見えず、旅の動画なら看板は読めず、ゲームの動画なら敵はわからず。ボカロPVだって文字は大きく、フレームレートは低く、動きは今よりも粗く。それなのに、世界は無限に広がっていませんでしたか?
技術あるいは人間がつねに前へ進み続けること、それは実にすばらしいことです。技術の進歩があったからこそインターネットは存在し、私はこうしてブログを書くことができているのですから。しかし、過ぎたるは猶及ばざるが如しとも言います。ちょっとスピードを出しすぎではないでしょうか。
私たちは想像力をもっていますから、いわば想像力がフレーム補間の役割を果たすのです。想像力と解像度は表裏一体とも言えるかもしれませんね。
解像度が高ければ高いほど、私たちの想像しうる余地は狭くなります。解釈や余韻の自由度が下がってしまうのです。また解像度が高ければ高いほど、不自然さや違和感といった類はより目立つでしょう。普遍性という観点からも、どこか不鮮明な方が広く需要にマッチするかもしれません。
解像度が低いということは、なにも悪いことばかりでないと思うのです。
みなさんもどうか法定速度を守って、安全運転を心掛けてくださいね。
ではまた次回、バイバイ。
最近、動画という媒体が社会を跋扈していますよね。なんとかチューブとか、なんとかフリックスとか。もはや動画として提供されなくてよいものまで動画として提供されている場合もあるでしょう。気軽に知りたい情報とか、のんびりと読みたい記事とか。
実際、私も動画という媒体の虜であることは事実です。私の日常に生じた隙間には、ニコニコ動画がいっぱいに詰め込まれています。たまに静画や生放送も混ざっていますが。
今回はその動画をふまえて、最近の作品に思ったことを一つ。キーワードは想像力と解像度。
近年は4Kや8K、UHDという言葉をよく耳にしませんか?
UHDはUltra HDのことで、もっと言えばUltra High Definitionの略だそうです。つまりは超高解像度みたいなやつです。4Kや8Kは画素数のことを言っていて、水平方向に4,000画素や8,000画素くらいあるよ、ということみたいです。
ちなみに私はあまりこの辺に詳しくありません。ちょっと詳しい友人に訊いてきます。
これでもかと動画が普及するにつれて、解像度の高まりも止まるところを知りません。自然の景色や映画の迫力、スポーツの中継を鮮明に味わいたいということでしょう。
それと低解像の画像や動画を高解像にする、超解像という技術もあるみたいです。人間は強欲ですね。
みなさんはこれ、どう思いますか?
かい‐ぞう〔‐ザウ〕【解像】 の解説
レンズを通して像を細部まで写し出すこと。
私はボカロが好きで、いわゆるボカロPVも好きです。自ら作ってしまうほどには、ボカロPVのような作品に目がありません。
最近の動画を見ていると、解像度の高さに驚かされます。ここで言う解像度は、べつに画素数にかぎった話ではありません。時間的な解像度、ましてや投稿間隔的なものも含みます。もしかしたら周波数と言った方が適切かもしれません。
最近の動画は本当に緻密で、まさに高精細といったところでしょう。
空間的な解像度としては、なによりも画素数です。HDやFHDの動画はもはやもちろんのこと、4Kの作品すら目にすることがあるのではないでしょうか。説明不要!!
あとは文字の大きさですね。最近の動画は文字の小さいこと小さいこと・・・。スマートフォンから見たら、なにも見えませんよ。文字は大きければ大きいほど恰好良いと思っている私からすると、これは少し意に反した風潮です。
時間的な解像度について言えば、それはフレームのことです。今やフレーム単位で動くオブジェクトやエフェクトなどは、もはやざらです。フレームレートも高いものが増えてきて、やたらとぬるぬる動きますよね。これはいわば「イントラ動画」の話です。
そういった高精細な動画たちが、恐るべき頻度で世に放たれていることも事実です。昨今のコンテンツは賞味期限が本当に早くて、もったいないとすら感じられます。それくらいには供給の周期が短くて、目まぐるしいです。先の「イントラ動画」に対して、これは「インター動画」の問題と言えるでしょう。
スペーシャルだったりテンポラルだったり、イントラだったりインターだったり。とにかく昨今の動画は超高解像度なのです。
ここまでする必要、あります?
解像度の低い画像や動画に対して、不満を口にする人を見かけます。「これは画質が悪いよね」、「もっと画質が良ければなあ」。もしかしたら最近はもっと増えているかもしれません。
私にはそういった声が、私たちの過去を否定しているように聞こえてしまうのです。ほんの十年くらい前、私たちは360pや480pくらいの動画を存分に満喫していたはずです。技術の動画なら細部は見えず、旅の動画なら看板は読めず、ゲームの動画なら敵はわからず。ボカロPVだって文字は大きく、フレームレートは低く、動きは今よりも粗く。それなのに、世界は無限に広がっていませんでしたか?
技術あるいは人間がつねに前へ進み続けること、それは実にすばらしいことです。技術の進歩があったからこそインターネットは存在し、私はこうしてブログを書くことができているのですから。しかし、過ぎたるは猶及ばざるが如しとも言います。ちょっとスピードを出しすぎではないでしょうか。
私たちは想像力をもっていますから、いわば想像力がフレーム補間の役割を果たすのです。想像力と解像度は表裏一体とも言えるかもしれませんね。
解像度が高ければ高いほど、私たちの想像しうる余地は狭くなります。解釈や余韻の自由度が下がってしまうのです。また解像度が高ければ高いほど、不自然さや違和感といった類はより目立つでしょう。普遍性という観点からも、どこか不鮮明な方が広く需要にマッチするかもしれません。
解像度が低いということは、なにも悪いことばかりでないと思うのです。
そう‐ぞう〔サウザウ〕【想像】 の解説
実際には経験していない事柄などを推し量ること。また、現実には存在しない事柄を心の中に思い描くこと。
みなさんもどうか法定速度を守って、安全運転を心掛けてくださいね。
ではまた次回、バイバイ。
完璧と障壁のこと
こんばんは。なんとか6月に滑り込みました。
いきなりですが、漢字テストをしましょう。みなさんは"カンペキ"という漢字を書くことができますか?
あ、今記事のタイトルを見ましたね?ズルはダメですよ?
"カンペキ"は漢字で"完璧"と書きます。とくに"璧"は"辟"と"玉"でできています。案外難しいですよね。咄嗟には書けないかもしれません。
ときどきこれを"完壁"と書いてしまう人がいると聞きます。たしかに璧と壁は形が似ていますからね。"壁"の下部分は"土"です。しかし、はたしてこの誤りは本当に誤りなのでしょうか。
本日の主役は、完璧であることが障壁となる者です。
私は根っからの完璧主義者です。仕事も趣味も、完璧にこなしたくて仕方がありません。同僚にはよく「仕事が遅いけど絶対にミスが無い」と言われます。至極そのとおり。
ちなみに似たような概念として、几帳面というものがあると思います。違いについて深く考えたことはないので、必要に応じて読み替えちゃってください。
結論から述べると、私は私の中にいる"完璧主義"が邪魔で仕方がないのです。こいつのせいで仕事の効率は著しく落ちていますし、心の余裕もみるみる失われていくのです。
お絵描きを例に挙げれば、この問題は線画と絡んできます。ずばり私は線画が描けません。キレイな線を引こうと立ち止まり続け、一歩も前に進めなくなってしまうのです。それにかかる時間と精神のコストは計り知れません。
ノートの端やチラシの裏が舞台だったころは楽しかったはずのお絵描きに、苦痛を覚えてしまうことすらあるわけです。
こうした線画の話はよく聞かれるものかもしれません。しかし、当然これは動画作りにも言えることなのです。それはオブジェクトの位置だったり、レイヤーの順序だったり、スクリプトのパラメータだったり――。
音を切り貼りする際はそれも要因に仲間入りしますし、素材を使うときもまた然りです。さらに絵も描くとなれば、それはもうしっちゃかめっちゃか。油断するとすぐ負のスパイラルに陥ってしまい、アリジゴクに嵌ったアリの気持ちを味わうことになるのです。抜けられないんですよ、これが。
くだらない回れ右にばかり足を取られ、思い浮かぶはずのアイデアも海底に沈み、この手の届く距離もますます小さくなっていきます。
"傷のない玉"を由来に"完璧"という言葉は生まれたみたいです。しかし、私から見れば"完璧"は"完壁"で、つまり"完全な障壁"なのです。そう考えると、先の誤りも許せるような気がしてきませんか?言葉って面白。
ということで、誰か私の壁を壊してください。
お待ちしております。
いきなりですが、漢字テストをしましょう。みなさんは"カンペキ"という漢字を書くことができますか?
あ、今記事のタイトルを見ましたね?ズルはダメですよ?
"カンペキ"は漢字で"完璧"と書きます。とくに"璧"は"辟"と"玉"でできています。案外難しいですよね。咄嗟には書けないかもしれません。
ときどきこれを"完壁"と書いてしまう人がいると聞きます。たしかに璧と壁は形が似ていますからね。"壁"の下部分は"土"です。しかし、はたしてこの誤りは本当に誤りなのでしょうか。
本日の主役は、完璧であることが障壁となる者です。
私は根っからの完璧主義者です。仕事も趣味も、完璧にこなしたくて仕方がありません。同僚にはよく「仕事が遅いけど絶対にミスが無い」と言われます。至極そのとおり。
ちなみに似たような概念として、几帳面というものがあると思います。違いについて深く考えたことはないので、必要に応じて読み替えちゃってください。
結論から述べると、私は私の中にいる"完璧主義"が邪魔で仕方がないのです。こいつのせいで仕事の効率は著しく落ちていますし、心の余裕もみるみる失われていくのです。
お絵描きを例に挙げれば、この問題は線画と絡んできます。ずばり私は線画が描けません。キレイな線を引こうと立ち止まり続け、一歩も前に進めなくなってしまうのです。それにかかる時間と精神のコストは計り知れません。
ノートの端やチラシの裏が舞台だったころは楽しかったはずのお絵描きに、苦痛を覚えてしまうことすらあるわけです。
こうした線画の話はよく聞かれるものかもしれません。しかし、当然これは動画作りにも言えることなのです。それはオブジェクトの位置だったり、レイヤーの順序だったり、スクリプトのパラメータだったり――。
音を切り貼りする際はそれも要因に仲間入りしますし、素材を使うときもまた然りです。さらに絵も描くとなれば、それはもうしっちゃかめっちゃか。油断するとすぐ負のスパイラルに陥ってしまい、アリジゴクに嵌ったアリの気持ちを味わうことになるのです。抜けられないんですよ、これが。
くだらない回れ右にばかり足を取られ、思い浮かぶはずのアイデアも海底に沈み、この手の届く距離もますます小さくなっていきます。
"傷のない玉"を由来に"完璧"という言葉は生まれたみたいです。しかし、私から見れば"完璧"は"完壁"で、つまり"完全な障壁"なのです。そう考えると、先の誤りも許せるような気がしてきませんか?言葉って面白。
ということで、誰か私の壁を壊してください。
お待ちしております。
アンチと絶対値のこと
みなさん、こんばんは。
みなさんには"好きなもの"がありますか?それは好きな食べ物だったり、好きな本だったり、好きな映画だったり。私にはあります。
言わずもがな私はボカロを聴くのが好きですし、そのPVを見るのも好きです。私が絵を描いたり動画を作ったりするのも、当然好きだからです。他にもMAD動画や実況動画など、好きなものを挙げ始めたらキリがないかもしれません。
もし好きなものがないという方がいれば、ぜひ探してみませんか?一つでも好きなものがあるだけで、人生は変わってくるような気がします。
一方で、みなさんには"嫌いなもの"がありますか?こちらはなかなか答えにくい質問かもしれません。
今回はそんな"嫌うこと"についての話です。
過剰なまでに発展する昨今の情報社会は、人々の視界を広げ続けています。
とても見晴らしがよくなった世界で、人々にはさまざまな意見が届くようになりました。しかしそれらは決して嬉しいものばかりではありません。匿名という二文字を盾に、罵詈雑言を撒き散らしてはカタルシスを手にするような人々もいると聞きます。そしてそのような声を真に受け、未来を断念してしまう人々もいるようです。
さて。攻撃の対象が崖から未来を投げたとき、攻撃者たちは喜ぶのでしょうか。つまり変な言い方をすれば、それはアンチにとっての"成功"なのでしょうか。
ここでエネルギーという発想を導入してみましょう。
今回の話題に対して、今から運動エネルギーのアナロジーを考えてみます。
速度vで運動する質量mの物体について、運動エネルギーKは次として表されるとのことです。
注目すべきはvの肩にある2です。運動エネルギーは速度の二乗に比例するわけですが、これはつまり向きが関係ないということを意味します。前に進んでいても後ろに退いていても、質量と速度の絶対値が等しければ運動エネルギーは同じなのです。これが今回のポイント。
ちなみにこれはたとえば弾性エネルギーに関しても同じことが言えます。バネは縮めるにしても伸ばすにしても、その程度が大きいほどより多くのエネルギーをもつからです。
それでは話をもとのところに戻しましょう。
好くという行為が正の向きをもつとすれば、嫌う行為は負の向きとなるはずです。いわばポジティブとネガティブです。これらの行為を変位や速度に当てはめれば、先のような議論が可能となるはずです。
つまり言いたかったことは、"嫌うという行為が好く行為と同等なエネルギーを持ちうる"ということでした。それは"炎上商法"という言葉が存在することからも見てとれるでしょう。
戦争すらも懸念される情報という戦場で、武器となるのは当然ながら情報に相違ありません。そしてアンチたちのもたらす情報もまた情報であり、それは相手の武器になりうるわけです。
たとえばあなたがインターネットなどを漂う誰かのことを嫌ったとしましょう。あなたがその事実を周囲に発信したとき、あなたはその誰かの"情報"を周囲に提供したことになります。すなわちあなたのその"嫌い"がエネルギーとなって周囲に伝導するのです。もしかするとあなたの発信をもとに、あなたの周囲もあなたと同じくその誰かを嫌うかもしれません。その場合はあなたの与えたエネルギーが負の向きに仕事をしたことになります。あるいは周囲がその誰かに興味を抱き、いずれファンとなりその誰かの救いとなるかもしれません。エネルギーが正の向きに仕事をした場合に起こる事態です。
このような場合分けが考えられるのは、エネルギーが方向を考慮しないことに由来するような気がするのです。とくに後者の発生というのはあなたにとって不本意なものではないですか?あなたはその誰かを嫌いなのに、それがエネルギーであるばかりに。
嫌いなものに対して取るべき一つの行動はずばり"無視"を決め込むことではないでしょうか。"好きの反対派は嫌いでなく無関心"という言葉がありますが、きっと昨今の社会で必要なことの一つはこれです。人々から無視されたそれというのはエネルギーを持つことができないわけですから。繰り返しになりますが、昨今の社会で武器となるのは紛れもなく情報です。
触らぬ神に祟りなしとも言いますしね。
そんなわけで、みなさんも情報は上手に扱っていきましょ。
ではまた。
みなさんには"好きなもの"がありますか?それは好きな食べ物だったり、好きな本だったり、好きな映画だったり。私にはあります。
言わずもがな私はボカロを聴くのが好きですし、そのPVを見るのも好きです。私が絵を描いたり動画を作ったりするのも、当然好きだからです。他にもMAD動画や実況動画など、好きなものを挙げ始めたらキリがないかもしれません。
もし好きなものがないという方がいれば、ぜひ探してみませんか?一つでも好きなものがあるだけで、人生は変わってくるような気がします。
一方で、みなさんには"嫌いなもの"がありますか?こちらはなかなか答えにくい質問かもしれません。
今回はそんな"嫌うこと"についての話です。
過剰なまでに発展する昨今の情報社会は、人々の視界を広げ続けています。
とても見晴らしがよくなった世界で、人々にはさまざまな意見が届くようになりました。しかしそれらは決して嬉しいものばかりではありません。匿名という二文字を盾に、罵詈雑言を撒き散らしてはカタルシスを手にするような人々もいると聞きます。そしてそのような声を真に受け、未来を断念してしまう人々もいるようです。
さて。攻撃の対象が崖から未来を投げたとき、攻撃者たちは喜ぶのでしょうか。つまり変な言い方をすれば、それはアンチにとっての"成功"なのでしょうか。
ここでエネルギーという発想を導入してみましょう。
仕事をすることのできる能力のことを指す。物体や系が持っている仕事をする能力の総称。
今回の話題に対して、今から運動エネルギーのアナロジーを考えてみます。
速度vで運動する質量mの物体について、運動エネルギーKは次として表されるとのことです。
注目すべきはvの肩にある2です。運動エネルギーは速度の二乗に比例するわけですが、これはつまり向きが関係ないということを意味します。前に進んでいても後ろに退いていても、質量と速度の絶対値が等しければ運動エネルギーは同じなのです。これが今回のポイント。
ちなみにこれはたとえば弾性エネルギーに関しても同じことが言えます。バネは縮めるにしても伸ばすにしても、その程度が大きいほどより多くのエネルギーをもつからです。
それでは話をもとのところに戻しましょう。
好くという行為が正の向きをもつとすれば、嫌う行為は負の向きとなるはずです。いわばポジティブとネガティブです。これらの行為を変位や速度に当てはめれば、先のような議論が可能となるはずです。
つまり言いたかったことは、"嫌うという行為が好く行為と同等なエネルギーを持ちうる"ということでした。それは"炎上商法"という言葉が存在することからも見てとれるでしょう。
戦争すらも懸念される情報という戦場で、武器となるのは当然ながら情報に相違ありません。そしてアンチたちのもたらす情報もまた情報であり、それは相手の武器になりうるわけです。
たとえばあなたがインターネットなどを漂う誰かのことを嫌ったとしましょう。あなたがその事実を周囲に発信したとき、あなたはその誰かの"情報"を周囲に提供したことになります。すなわちあなたのその"嫌い"がエネルギーとなって周囲に伝導するのです。もしかするとあなたの発信をもとに、あなたの周囲もあなたと同じくその誰かを嫌うかもしれません。その場合はあなたの与えたエネルギーが負の向きに仕事をしたことになります。あるいは周囲がその誰かに興味を抱き、いずれファンとなりその誰かの救いとなるかもしれません。エネルギーが正の向きに仕事をした場合に起こる事態です。
このような場合分けが考えられるのは、エネルギーが方向を考慮しないことに由来するような気がするのです。とくに後者の発生というのはあなたにとって不本意なものではないですか?あなたはその誰かを嫌いなのに、それがエネルギーであるばかりに。
嫌いなものに対して取るべき一つの行動はずばり"無視"を決め込むことではないでしょうか。"好きの反対派は嫌いでなく無関心"という言葉がありますが、きっと昨今の社会で必要なことの一つはこれです。人々から無視されたそれというのはエネルギーを持つことができないわけですから。繰り返しになりますが、昨今の社会で武器となるのは紛れもなく情報です。
触らぬ神に祟りなしとも言いますしね。
そんなわけで、みなさんも情報は上手に扱っていきましょ。
ではまた。
慣性と感性のこと
お世話になっております。
突然ですが、理科の授業です。
みなさんは慣性というものをご存知ですか?もしかしたら中学校や高校などで習ったことがあるかもしれません。慣性とは、性質です。
つまりなんらかの力を受けないかぎり、物は同じままに動き続けるという性質です。止まっているものは止まったままですし、動いているものは動いたままです。
逆にいえば、物の動きというのは力が加わったとき初めて変わります。加速ですね。また加速する物体から外を眺めたとき、まるで世界に反対向きの力が加わったかのように感じられます。慣性力ですね。
慣性のおかげで、エアバッグの需要はあるわけです。ダルマオトシが楽しいのは、慣性があるからです。
とても興味深い話ですね。
今回の話は、そんな慣性に関するものです。ずばりなにが言いたいのかというと、私の感性には慣性がはたらかないのです。
時とよばれるものは、今もこうして流れ続けています。たとえベッドで横になっていても瞼を閉じていても、それは変わりません。
おそらくなのですが、この時とやらにはいかなる力も加わっていないことでしょう。すると時とは、果てに向かい等速直線運動を行う慣性系であると考えられます。どこか遠くにある終着駅をゆっくりと目指す、一両の列車を想像するとわかりやすいかもしれません。
等速で直線に運動をするこの時の中で、私たちは生きています。
テレビを見たりラジオを聞いたりして、最近よく思うことがあります。それは世間の流行とやけに趣味が合わないということです。人々が広く受け入れているあれやこれやを、私は受け入れられないのです。いつも決まって"なぜだろう"だとか"寒い"だとか、否定的な思考に及んでしまいます。
いわゆる"逆張りオタク"なのだといわれたら、それでこの話は終わりなのかもしれません。しかしそれではつまらないので、もっと深く考えてみましょ?
そもそもこの慣性という発想に至ったのは、昨今の動画的社会情勢を眺めてのことでした。
元来私は"右から左へと言葉が流れる"ような動画サイトのことが好きでした。いつも学校から帰ってはパソコンを開き、宿題を横目にそれを見ていました。そこに私は幾度となく救われてきました。
消費者として生かされ続けてきた私の夢はいつしか、生産者として恩返しをすることになりました。しかし社会とは無情にも無常で、今やその故郷は人々に見捨てられるばかりなのです。大成した者はみな等しくそこを放棄し、群衆から告げられる余命宣告は数知れず、緑の枯れた砂漠と揶揄されることも日常茶飯事のようです。
もしかしたら私の夢はこのまま叶わないのかもしれません。
はっきり言って最悪な状況です。このままでは生きる理由を失うのもそう遠くありません。どうしてですか?なにがいけないのですか?
答えは私という人の感性に慣性がはたらかないからなのです。私が抱く趣味や夢は時間軸方向に外力を受けていないにもかかわらず時に沿って運動せず、そのときの景色に囚われてしまいます。つまり時という慣性系から外れるわけです。
これは言い換えれば、私の慣性にはなにか不自然な力がはたらいているということになります。物理法則を逸脱するこの外力が、私の心を時の慣性系から放ります。
そして時と名づけられた列車の中で私が感じたことやものは、線路の上で置き去りにされるのです。
結局のところは、ただ柔軟性がないということに尽きるでしょう。かねてから私はそのとき目にしたものを親として信じ続けてしまう癖がありますし、元来私の心は固体なのです。まるで恒温動物を代表するかのように、私は誰よりも外界の変化に耐えられません。
世間の人々はみな現状に絶望していますか?昨今の流行に辟易していますか?していませんよね。それはなぜかというと、感性に慣性がはたらいているからです。あるいは柔軟性があるともいえるでしょう。人々は時という列車の屋根でジャンプしても、そこから落ちることは決してないのです。
非慣性系の感性をもった私の涙は、今日もまた時の列車に揺られるのでした。
それではまたいつか。
突然ですが、理科の授業です。
みなさんは慣性というものをご存知ですか?もしかしたら中学校や高校などで習ったことがあるかもしれません。慣性とは、性質です。
慣性(かんせい、英語:inertia)とは、ある物体が外力を受けないとき、その物体の運動状態は慣性系に対して変わらないという性質を表す。惰性ともいう。
つまりなんらかの力を受けないかぎり、物は同じままに動き続けるという性質です。止まっているものは止まったままですし、動いているものは動いたままです。
逆にいえば、物の動きというのは力が加わったとき初めて変わります。加速ですね。また加速する物体から外を眺めたとき、まるで世界に反対向きの力が加わったかのように感じられます。慣性力ですね。
慣性のおかげで、エアバッグの需要はあるわけです。ダルマオトシが楽しいのは、慣性があるからです。
とても興味深い話ですね。
今回の話は、そんな慣性に関するものです。ずばりなにが言いたいのかというと、私の感性には慣性がはたらかないのです。
感性(かんせい)は、人間の持つ知覚的な能力のひとつである。
時とよばれるものは、今もこうして流れ続けています。たとえベッドで横になっていても瞼を閉じていても、それは変わりません。
おそらくなのですが、この時とやらにはいかなる力も加わっていないことでしょう。すると時とは、果てに向かい等速直線運動を行う慣性系であると考えられます。どこか遠くにある終着駅をゆっくりと目指す、一両の列車を想像するとわかりやすいかもしれません。
等速で直線に運動をするこの時の中で、私たちは生きています。
テレビを見たりラジオを聞いたりして、最近よく思うことがあります。それは世間の流行とやけに趣味が合わないということです。人々が広く受け入れているあれやこれやを、私は受け入れられないのです。いつも決まって"なぜだろう"だとか"寒い"だとか、否定的な思考に及んでしまいます。
いわゆる"逆張りオタク"なのだといわれたら、それでこの話は終わりなのかもしれません。しかしそれではつまらないので、もっと深く考えてみましょ?
そもそもこの慣性という発想に至ったのは、昨今の動画的社会情勢を眺めてのことでした。
元来私は"右から左へと言葉が流れる"ような動画サイトのことが好きでした。いつも学校から帰ってはパソコンを開き、宿題を横目にそれを見ていました。そこに私は幾度となく救われてきました。
消費者として生かされ続けてきた私の夢はいつしか、生産者として恩返しをすることになりました。しかし社会とは無情にも無常で、今やその故郷は人々に見捨てられるばかりなのです。大成した者はみな等しくそこを放棄し、群衆から告げられる余命宣告は数知れず、緑の枯れた砂漠と揶揄されることも日常茶飯事のようです。
もしかしたら私の夢はこのまま叶わないのかもしれません。
はっきり言って最悪な状況です。このままでは生きる理由を失うのもそう遠くありません。どうしてですか?なにがいけないのですか?
答えは私という人の感性に慣性がはたらかないからなのです。私が抱く趣味や夢は時間軸方向に外力を受けていないにもかかわらず時に沿って運動せず、そのときの景色に囚われてしまいます。つまり時という慣性系から外れるわけです。
これは言い換えれば、私の慣性にはなにか不自然な力がはたらいているということになります。物理法則を逸脱するこの外力が、私の心を時の慣性系から放ります。
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そして時と名づけられた列車の中で私が感じたことやものは、線路の上で置き去りにされるのです。
結局のところは、ただ柔軟性がないということに尽きるでしょう。かねてから私はそのとき目にしたものを親として信じ続けてしまう癖がありますし、元来私の心は固体なのです。まるで恒温動物を代表するかのように、私は誰よりも外界の変化に耐えられません。
世間の人々はみな現状に絶望していますか?昨今の流行に辟易していますか?していませんよね。それはなぜかというと、感性に慣性がはたらいているからです。あるいは柔軟性があるともいえるでしょう。人々は時という列車の屋根でジャンプしても、そこから落ちることは決してないのです。
非慣性系の感性をもった私の涙は、今日もまた時の列車に揺られるのでした。
それではまたいつか。