あいであのーと

それは備忘録の類い

百点と弱点のこと

こんばんは。2023年も1/12≈0.083が過ぎました。

 

モノを作る人には、2種類があります。一方は適度な時間で十分なモノを作る人、他方は膨大な時間で完璧なモノを作る人。みなさんは、どちらに当てはまりますか?

私は圧倒的な後者です。計り知れない時間を費やして、一切の隙がない作品を生み出します。

 

今日はそんな2種類から、創作における完成を考察します。

 

 

みなさんはビデオゲームが好きでしょうか。私は好きです。

私はニンテンドーのゲームが好きで、ずっと遊んでいました。中古で買ったスーパーファミコンニンテンドー64で、狂ったように遊びまくった記憶があります。またDSやWiiもこれでもかと言わんばかりに遊び倒したものです。

 

かつてはビデオゲームばかりしていた私ですが、今では腰を据えて遊ぶこともめっぽう少なくなりました。最後に遊び尽くしたのは『星のカービィ ディスカバリー』でした。

www.nintendo.co.jp

自らプレイすることは少なくなったものの、動画を見ることは今でもよくあります。よくあるというか、私の隙間時間はすべてその視聴時間と言っても過言ではないです。

 

ビデオゲームに関して、私はいわゆる「バグ」というものが好きでした。あまり大きな声では言えませんが、やはり開発者を含めた誰もが予想しなかった奇怪な挙動には面白いものがあると思います。よくインターネットでバグ動画を見たり、それを手元で再現したりして遊んでいました。

有名なところで言えば、階段や上昇するリフトに向かって何度も後ろ向きに走り幅跳びしていました。

 

そんなビデオゲームのバグですが、最近は少なくなりました。いや、むしろ増えたともいえるかもしれません。どういうことかというと、リリース直後こそはバグが多くありますが、時が経つにつれてそれが減っていくのが現代の主流*1ということです。

これはいわゆるパッチによるものでしょう。コンシューマゲームを含め、今やビデオゲームとインターネットは切っても切れない関係となり、それに伴いデータの更新も容易になりました。

 

望まないバグを取り除けることからも、これは開発者にとって嬉しいことでしょう。一方で、逆から見るとこれは「どうせ後で直せるんだから、最初は多少粗があってもいい」という考え方にもとれます。ちょっと悪く聞こえるかもしれませんが、悪く言うつもりはありません!

実際、最近のビデオゲームでは開発がリリースに追いつかず、リリース当初の動作が安定しないという旨の話をよく耳にします。これはまさに、冒頭の問いにおける前者の例です。

 

 

これはほんの一例で、昨今はこういった「十分」が多く求められています。言い換えれば、私のような「完全」は不利な立場に追いやられている気がしてなりません。

 

 

テレビを見ていても、思うことがあります。私は幼いころ、よくお笑い番組なんかを見ていました。それもあって、今でもなんだかんだテレビは見ています。

昨今は若者のテレビ離れという言葉を耳にします。テレビを見なくなった若者がなにを見ているのかというと、それはきっとインターネットの海を漂う動画の山々でしょう。

テレビという媒体は、それを目指しそのために学んできた人々によって作られたプロの出し物です。一方インターネットという媒体はその逆で、誰も彼もが誰も彼もに作品を提供できる場所にほかなりません。

つまり最近の主流は結局、自分たちにとって「十分」な作品を摂取できればそれが「完全」である必要はない、とは言えないでしょうか?

 

 

人々による消費がより高い粒度で行われることは、その人々にとって望ましいことに思えます。消費すべきモノが飽和した現代の人々にとって、その個々があえて「完全」である必要はないのかもしれません。質より量、あるいは薄利多売*2の時代が今、訪れているのです。

しかしそれでは、それを「十分」以上に学んできたり臨んできた人々が報われない気がしませんか?

 

世界がインターネットの海に沈んだ現代では、もはや百点を目指すその姿勢というのはナンセンスなのかもしれません。私のそれは今や、一種の弱点なのでした。

 

どうか優しくしてね。それではまた次回。

*1:いわば「過渡現象」ということ。抵抗をコンシューマ、コンデンサをデバッガ、電源を開発、スイッチのオンをリリースだと思えば、電流はバグとして捉えられるかもしれません。

*2:薄利多売というのは、今回のトピックから少しズレているかもしれません。しかし作品それぞれのクオリティよりもそれらの投稿インターバルが重視される今、それはあながち間違ってもいないでしょう。