あいであのーと

それは備忘録の類い

執着と終着のこと

こんばんは、もうすぐ秋ですね。ブロマガ移行の都合もあって今回は早め。



みなさんはなにかに執着してしまうこと、ありませんか?
しゅう‐ちゃく〔シフ‐〕【執着】 の解説
[名](スル)《「しゅうじゃく」とも》一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと。「金に執着する」「執着心」
終着のない私の話、どうか聞いてくれませんか?
しゅう‐ちゃく【終着】 の解説
列車など交通機関が、ある路線の最後の駅に着くこと。終点に着くこと。



そんなわけで今回はボカロの話です。あるいは私の嗜好について。



なにより私はボカロが大好きです。聴く音楽はもっぱらボカロですし、ボカロが無ければ今や私は存在していません。逆に人間の歌はまったくといっていいほど聴くことがありません。不思議なことですね。

ひとえにボカロと言っても、その解釈は一意でないといいます。ある人は「機械の歌声」をボカロと呼び、ある人は「いわゆるボカロっぽい曲たち」をボカロと呼び、ある人は「歌ってみたというインスタンスのクラス」をボカロと呼び――。私のそれは一つ目に近いものです。



なぜ私がボカロばかりを好むのか。一つの理由は、そもそも私が人間というものを好まないことでしょう。なにせ現実嫌いの私なので、現実の外でも現実を感じていたくはないのです。キーワードは人間らしくなさ、あるいは現実らしくなさ。ほかにも完璧主義っぽい私との相性が良いことや、幼いころに深くハマったコンテンツであることなど、理由はいくつかあると思っています。



ところで、一般的な歌とボカロにはなにか明確な境界線がありますよね。いわゆる文化というものは明らかに異なっているのではないでしょうか。あまり前者を知らないのでなんともいえませんが。

そして境界線があるということは、そこに「排他的論理和」が存在するということです。平たく言えば、それは「どちらか一方」の存在。どちらかであれば許すが、どちらもは許さないという考え方を指します。

ボカロは好きだが人間は好まない。あるいは人間は良いけどボカロは良くない。これらは排他的論理和といえるでしょう。それって……私のこと!?




先日、私は私がもっとも愛したボカロPさんのキャスに耳を傾けていました。いつものことです。いつかのキャスで、私たちのような「どちらか主義」の存在は煙たがられていました。いつものことです。

あなたもボカロをやめるのか、ボカロはただの踏み台だったのか。そういった声が鬱陶しいとのことでした。たしかにそうかもしれません。

私にとってそれらの声というのは、決して第三者のそれではなかったのです。正直、私もこれまで同じようなことを幾度となく心に抱いてきました。ボカロで聴きたかったな、ボカロ版が出ないかな。これらは私の常套句。待ちに待った告知が歌い手さんへの書き下ろし曲で肩を落とし、アルバムに収録されるそのボカロ版に垂涎する日々を送ってきたのです。

実際私がもっとも愛したボカロPさんも、近年はボカロ外で広く活躍しているみたいです。多くの歌い手さんに曲を書き下ろし、数年ぶりの投稿曲もついには人間が歌うもので、また気づかないところで別のことも行っていると聞きます。



私の好きだったものが広く認められることや長生きすること、それはとても喜ばしいことです。喜ばしいことのはずです。しかし私は喜んでいますか?



懸念、それは執着による「好き」の屈折です。執着にとらわれた私の「好き」は、その対象となるクリエイターを苦しめるものなのではないかということ。最近はこのことばかり考えています。

それは確固たるジレンマ。山のように、嵐のような。もはや私の愛は形骸化してしまっているのかもしれません。それは表面的な愛、まるで紙ペラ?



諸行無常の響きたるや、百も承知です。世界は絶えず変化し、流行はその文字通り過去へ流れて行きます。そこに佇む私たちの執着というのは、クリエイターたちを絞首しているのでしょうか。私たちの好意は創作の枷となっているのでしょうか。

やはり世界というところを生きるためには、私たちが嗜好を変化させていくしかないのかもしれません。すなわち執着からの解放です。ただそれというのは自己を否定することになりえます。つまりは私たちを構成する貴重なパーツを破壊していくということ。接着剤のイメージが適切でしょうか。私たちの好きだったものを守るために、私たちの好きだったことを壊すのです。しかしそれこそが世界を生きるということなのだとしたら――。なんというイタチゴッコ。



これは終着のない執着の話。きっと私の執着は私自身が終着するまで終着しないのでしょう。私の執着を終着させるには、私が終着するしかないということですね。

しかし今回の記事はこのあたりで終着、それではまた次回。