保存と破損のこと
みなさんこんばんは。新学期ですね。
突然ですが先日、私はいわゆるソシャゲのデータを紛失しました。具体的にはそのデータと紐づいていたアカウントを誤って削除してしまい、結果としてそのデータにアクセスできなくなってしまったのです。それは今世紀でもっとも悲しい出来事でした。
そんな悲劇もふまえながら、今回は電子書籍とテレビCMを手がかりに、残るということについて考えます。
みなさんは電子書籍を読みますか?
電子書籍はとにもかくにも便利だという話を聞きます。持ち運びが楽だったり、保管が楽だったり、検索が楽だったり。
そんな電子書籍ですが、私はまったくと言ってもよいほど使いません。理由は、電子書籍が読んで字のごとく電子的なもので、形として残らないからです。いわば仮想的な所有物のそれを、私は信じられないのです。
同様の理由で、コンシューマゲームを買うときは必ずパッケージ版を選びますし、いまだソーシャルゲームには課金できずにいます。
仮想的なものに対する不信感というのは、それが形として残らないからと言いました。しかしそれは本当でしょうか。
符号化されたデータは、符号化のアルゴリズムさえあればいつでも復号できます。一方で本やゲームソフトは、破れたり壊れたりしてその形を失うともはやその内容にはアクセスできなくなります。
そういう意味ではむしろ、形をもたないデータの方がより「残る」とも考えられませんか?ただしこれはメンテナンスありきの話*1ですが。
みなさんはテレビCMに関心がありますか?
私はわりと、テレビCMをはじめとする広告をもとにサービスを選ぶことがあります。大きな理由があるわけではありませんが、映像がカッコよかったりコピーが印象的だったりというのは、選択のきっかけ*2として十分でしょう。
昨今のテレビCMに対して、よく思うことがあります。それは昨今のテレビCMが軒並みストーリー仕立てであるということ。
文字通り物語性をもつものからテーマが継続的なものまで、いまどきのテレビCMはそういう傾向が強いです。もはやなにを宣伝したいのかわからないもの*3まで散見されます。
こういったタイプのテレビCMが増えているのは、過去のものが残るからだと思いました。
かつては一期一会だったテレビCMですが、今ではインターネットを介していつでも見返すことができます。過去にアクセスできるということはすなわち、簡単にシリーズをさかのぼれるということです。だからテレビCMは「続く」ようになったのでしょう。
言い換えれば、今やテレビCMは15秒や30秒の枠を超えているわけです。
後者の考察からわかるとおり、インターネットの普及によって「残る」ことの特性は変化しています。というよりかは、「残る」ことに対する見方が変化しています。
冒頭で述べた悲劇のように、データというのはどんなに重たいものであってもほんの一操作で削除できてしまう、それくらい仮想的でもろいものです。一方で前者の考察から、あるいはデジタルタトゥーなる言葉があるくらい、データがもつ残す力というのは強いことも事実です。
脆弱で強靭なデータをうまく扱って、ぜひなにかを残してみてください。
以上、飽和しつつある家の本棚を眺めながら書いた記事でした。ではまた次回。