あいであのーと

それは備忘録の類い

慣性と感性のこと

お世話になっております。



突然ですが、理科の授業です。

みなさんは慣性というものをご存知ですか?もしかしたら中学校や高校などで習ったことがあるかもしれません。慣性とは、性質です。
慣性(かんせい、英語:inertia)とは、ある物体が外力を受けないとき、その物体の運動状態は慣性系に対して変わらないという性質を表す。惰性ともいう。


つまりなんらかの力を受けないかぎり、物は同じままに動き続けるという性質です。止まっているものは止まったままですし、動いているものは動いたままです。

逆にいえば、物の動きというのは力が加わったとき初めて変わります。加速ですね。また加速する物体から外を眺めたとき、まるで世界に反対向きの力が加わったかのように感じられます。慣性力ですね。

慣性のおかげで、エアバッグの需要はあるわけです。ダルマオトシが楽しいのは、慣性があるからです。


とても興味深い話ですね。

今回の話は、そんな慣性に関するものです。ずばりなにが言いたいのかというと、私の感性には慣性がはたらかないのです。
感性(かんせい)は、人間の持つ知覚的な能力のひとつである。




時とよばれるものは、今もこうして流れ続けています。たとえベッドで横になっていても瞼を閉じていても、それは変わりません。

おそらくなのですが、この時とやらにはいかなる力も加わっていないことでしょう。すると時とは、果てに向かい等速直線運動を行う慣性系であると考えられます。どこか遠くにある終着駅をゆっくりと目指す、一両の列車を想像するとわかりやすいかもしれません。

等速で直線に運動をするこの時の中で、私たちは生きています。



テレビを見たりラジオを聞いたりして、最近よく思うことがあります。それは世間の流行とやけに趣味が合わないということです。人々が広く受け入れているあれやこれやを、私は受け入れられないのです。いつも決まって"なぜだろう"だとか"寒い"だとか、否定的な思考に及んでしまいます。

いわゆる"逆張りオタク"なのだといわれたら、それでこの話は終わりなのかもしれません。しかしそれではつまらないので、もっと深く考えてみましょ?



そもそもこの慣性という発想に至ったのは、昨今の動画的社会情勢を眺めてのことでした。

元来私は"右から左へと言葉が流れる"ような動画サイトのことが好きでした。いつも学校から帰ってはパソコンを開き、宿題を横目にそれを見ていました。そこに私は幾度となく救われてきました。

消費者として生かされ続けてきた私の夢はいつしか、生産者として恩返しをすることになりました。しかし社会とは無情にも無常で、今やその故郷は人々に見捨てられるばかりなのです。大成した者はみな等しくそこを放棄し、群衆から告げられる余命宣告は数知れず、緑の枯れた砂漠と揶揄されることも日常茶飯事のようです。

もしかしたら私の夢はこのまま叶わないのかもしれません。



はっきり言って最悪な状況です。このままでは生きる理由を失うのもそう遠くありません。どうしてですか?なにがいけないのですか?



答えは私という人の感性に慣性がはたらかないからなのです。私が抱く趣味や夢は時間軸方向に外力を受けていないにもかかわらず時に沿って運動せず、そのときの景色に囚われてしまいます。つまり時という慣性系から外れるわけです。

これは言い換えれば、私の慣性にはなにか不自然な力がはたらいているということになります。物理法則を逸脱するこの外力が、私の心を時の慣性系から放ります。

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そして時と名づけられた列車の中で私が感じたことやものは、線路の上で置き去りにされるのです。



結局のところは、ただ柔軟性がないということに尽きるでしょう。かねてから私はそのとき目にしたものを親として信じ続けてしまう癖がありますし、元来私の心は固体なのです。まるで恒温動物を代表するかのように、私は誰よりも外界の変化に耐えられません。

世間の人々はみな現状に絶望していますか?昨今の流行に辟易していますか?していませんよね。それはなぜかというと、感性に慣性がはたらいているからです。あるいは柔軟性があるともいえるでしょう。人々は時という列車の屋根でジャンプしても、そこから落ちることは決してないのです。

非慣性系の感性をもった私の涙は、今日もまた時の列車に揺られるのでした。



それではまたいつか。



付録
今回の話に対しては、次の記事を読むのがわかりやすいかもしれません:NHK高校講座 | ベーシックサイエンス | 第22回 「着地」するのは どこ? ~慣性の法則(1)~