負荷と不可のこと
あけましておめでとうございます。隔月更新と見せかけて、今年度末は増量。
みなさんはボカロを聴きますか?私はめちゃくちゃ聴きます。しかしここ最近は余裕がなく、あまり腰を据えて聴き回ることができていません。
今ではインターネットというプラットフォームが確立されてきて、ボカロに対する注目もまた凄まじいです。
よく言われるのが、最近は選ばれるボカロに変化が訪れているということ。これまでにもあったことですが、ここ数年はそれが顕著でしょう。
今回はそんなボカロの変化から、有名になるということについて考えていきます。
まずここ数年で起こっていることを眺めてみましょう。
昨今、ボカロというジャンルは注目される一方です。いわゆるネット文化がメインストリームにマージされたこと、情報化社会の恩恵を受けたクリエイターが続々と登場すること、ボカロ出身のアーティストが幅広く評価されていること、ボカロに焦点を当てたイベントが盛んなこと。原因はいくつもあります。
たとえばボカロに特化したイベントなんかは、私自身も楽しんでいます。ときにはサポーターとして、ときにはクリエイターとして。
なにかと話題のボカロ界隈ですが、事実として一つ変化が起こっています。それはボーカルについて。
ここ数年、とあるばーちゃるしんがー?をモチーフにしたボーカルが爆発的に増えました。それに追従して、同じすたじお?のメンバーを象ったものも続々と登場しているようです。これらの「広義のボカロ」の台頭は、留まるところを知りません。
もう少し昔だと、かのv flowerが世を席巻していたときがありましたが、それをまるで凌駕しているようにすら見えます。はたしてこれは本当でしょうか、それともそう見えるだけでしょうか。
私はいわゆるVの界隈に苦い思い出*1があり、今でも一定の距離を置くようにしています。細かく言えばばーちゃるしんがー?とぶいちゅーばー?は異なる概念なのかもしれませんが、遠くから見たら同じに見えてしまいます。それもあって、この現状には複雑な思いを抱えています。
私は明確なモデルが存在しないキャラクターが好きなので、それがまったく隠れていないと違和感を覚えてしまいます。ここで言うモデルはパーソナリティを指していて、つまり背景にある人間の息吹が嫌なのです。ボカロは一つ、存在しないキャラクターの歌声というところに価値があるでしょう。
話を戻すと、テーゼとなるのは上で述べた昨今の風潮は虚像なのかどうかです。答えは「虚像が実像になった」でしょう。回答としてちょっとズルいですか?
原因となるのは、そのソフトウェアがリリースされるとき図られた戦略です。それは当時、いわゆる「有名ボカロP」にカテゴライズされる面々に片っ端から声をかけ、されるべく評価される曲を大量に公開しました。
変な話、ボーカルが誰であろうと評価される人が書いた曲は評価されてしまいませんか?そういう時代ではありませんか?
インフルエンサーという単語が浸透するほど、昨今の人間は流行に左右されます。正確には、流行に左右されやすいという人間の特性が、インターネットの普及によって爆発した結果でしょう。
名だたるボカロPの方々が揃って同じボーカルを選んだという表層の事実に扇動され、人間はそれが流行していると錯覚したのです。言い換えれば、こと今回の変化においてその現象は、最初こそ虚像でした。しかし「大きな声」や「見えやすい画」を人間は信じ、いつかそれは実体をもちました。
企業戦略の成功とも捉えられるでしょう。少なからぬコストを払ってでも、まずは確固たる基盤を確立するという、昨今よくあるパターンですね。
ここで、この話題を別の角度から見てみましょう。私はあえて「有名ボカロP」という言葉を用いてきました。有名という二字熟語がキーワード。
先述のはまさに、有名であることが世間に与える影響の話でした。そこで私が思うのは、有名になればなるほど創作に圧力がはたらくということ。これは自由度が減るとも言えるかもしれません。
つまりここからはインフルエンシーではなく、インフルエンサーの視点。
なにより創作の動機というのは「つくりたいから」の一点でしょう。好きなものを作る、作ったものを見てもらう、それが創作だと思っています。
有名になると、そこには抵抗力のようなものが生じると思います。批判や偏見、あるいは信仰など。そして先述のような依頼というのも、そこに含まれるのではないでしょうか。
「こういう曲を書いてほしい」や「このボーカルに歌わせてほしい」は、いわば変数を固定することにほかなりません。別の言い方をすれば、これは次元が減るということです。高層ビルは三次元空間ですが、ひとたび階を指定すればそれは二次元空間になりますよね。そんな感じ。
あるいはPCA*2なる手法が存在することからも、次元の圧縮が情報の欠落をもたらすのは明らかでしょう。つまり望まない軸で頭の中を表せば、ときには無視できない情報落ちが発生してしまうということです。
そんなこんなを考えながら私が思うのは、それでも私たちを十分以上に満足させてくれる有名な方々はすごい、ということ。
インターネットの発展によって、有名という単語の重さも変わってきています。それに伴い度重なる依頼というのは、ときに枷となるでしょう。
それらの制約を魅力に昇華させられるのは、さすがとしか言えません。月並みな言葉を並べるばかりですが、すごいことだと私は思うのです。
度重なる負荷に耐え、なおかつ不可を出さないその方々は、なるべくして有名となったのでしょう。
ではまた。
*1:かつてVの黎明期、私はある一人を追いかけ始めました(今で言うところの推しでしょうか)。しかしよりにもよってその方だけが忽然と、周囲の誰よりも早く姿を消してしまいました。それ以来というもの、Vを「推す」ことに抵抗を抱き続けています。
*2:たとえば主成分分析「使ってみたくなる統計」シリーズ第4回 | ビッグデータマガジンなど。詳しくは主成分分析で検索。